もう1ヶ月以上前になるが、封切り直後の待ちに待った映画「鉄の女の涙」を見に行った。英国元首相サッチャー女史とは特別の思い出があるからだ。
彼女が首相を退任してから数年後の1996年、私の知人が日本でサッチャー女史の講演会を主催したので、聞きに行った。サッチャー女史が、「日本はアジアにおけるデモクラシーの要なのだ」と熱く語るその迫力は、聴衆2千人くらいの大会場の後ろのほうに座った私にまで届き、衝撃で鳥肌が立ったのを今でもよく覚えている。生まれて初めて本物の政治家を見たと思った。
翌年にも講演会が催され、私は、主催者の知人に、質疑応答のときの質問者の役割を頼まれた。大事なサッチャー女史の講演会で何か間違いがあってはいけないということで、予め決まっている人しか質問ができない流れになっていたのだ。私は何を質問したのか忘れてしまったが、彼女は確かにしっかりと答えてくれた。
さらに翌年の講演会。今度は、主催者の知人に司会進行役を頼まれた。上記の写真はそのときのものだ。会場の控え室で、彼女は、スピーチメモに目を通しながら準備をしていた。スピーチメモは彼女が自分で書いた手書きのものだった。すでに首相を退任しているとはいえ、「ちゃんと自分で用意するのか!」とひそかに驚いた。
サッチャー女史のお付きの人(ガードマンも兼ねているのか、えらいごっつい体格の男だった)に私は呼び出され、「サッチャー女史は、分刻みでスケジュールが詰まっているのです。時間通りに終わるようにきっちり仕切ってくれないと困りますからね」と釘を刺された。
いよいよ講演会本番。2千人の聴衆を前に緊張を覚えながらも、一応、無難に冒頭の紹介パートをこなし、彼女のスピーチが始まった。彼女が現役のときに出会った様々な政治家たちとの思い出を語るという比較的穏やかな内容だったように記憶している。そして質疑応答の時間となり、例によって、主催者が事前に仕込んでおいた質問者たちが順番に質問していった。確か、最後の質問者だったと思うが、デモクラシーに関係するような質問をした。とたんに彼女にスイッチが入った。デモクラシーに関する熱弁をふるい始め、その熱がどんどん高まるうちに終了時間を過ぎてしまった。私の脳裏に、あのごっついお付きの男の姿がちらつき、気が気ではなくなった。彼女がちょっと一息ついた瞬間を捉え、「お時間が過ぎているので、ここらへんで終わりにしましょう」と何とか口を挟んだ。すると、彼女は、「No!」と私を指差すと、「今、私は大事なデモクラシーの話をしているのです。止めるんじゃありません」と語気を荒げて言った。もちろん私はシュンと引っ込むしかなかった。
デモクラシーの話が一通り終わると、彼女は、「他にも質問したい人がいたら、どんどんしなさい」と会場に向かって言った。まさに想定外。即座に会場から10人くらいがマイクに駆け寄り、次々と質問していった。主催者の知人もお付きの男も、苦虫をつぶしたような顔になっていたのをよく覚えている。結局、どうやって講演会を終わらせたのかはよく覚えていない。
映画の中では、現役時代のサッチャー首相が、手際の悪い仕事をした補佐官(か官房長官か)を、閣僚全員の前でコケ下ろすシーンがある。その日の映画館において、わたし以上に、この補佐官に共感した人はいないと確信している。


